『猫を棄てる』

”ねずみ”ときたら”猫”、というつもりもなかったのですが、
『フレデリック』を借りに行ったら返却棚にありました。いいめぐり合わせでした。



村上春樹 著 『 猫を棄てる -父親について語るとき- 』(文藝春秋)


息子から見た父、というひと組の親子の話を通して、自分の亡父も含め、全てのひとに存在する「父」なるものを考えたいと思って読みました。


結果、「父なるもの」に限らず、いろんな理由で身内にも「語らないひと」「語れないひと」の居ることを思いました。


語らないひとを理解するのは難しいことですが、仮にその胸のうちを聞かせてもらえたとしても、簡単に理解し合えるとは思わないでいようと心に留め置きます。



語ることで辛さを昇華したり、不安が払しょくされて慰められたり、出来事を受け止められるようになったり、 ということは、そう容易なことではないのだと、


せめてそのことを理解していようと思った読後、


コロナ禍の3.11のころ。




今年の3月11日は快晴で、裏庭にわずかに融け残る雪をいつくしみながら、枯れ草を集めたり、季節の巡りを感じたり、生きものたちが静かに(そこここに)居るケハイの中で過ごしました。

シンプルに手を動かすことに救われた日。







雪の間にいろんなところが朽ちていて

木部は夫ができる範囲で修繕、

ウッドデッキもベンチも塗りなおしてくれてすっきり。


春を迎える準備の日でした。


***



いろんなことがデリケートに思えて、

言葉を保留することの多かった1年であり、3年でした。


今年は少しずつ、言葉を取り戻したい、と願いつつ

ほんとうに語りたいことを書くというのは、なかなかにむつかしく


2カ月も保留していたのを結局書きあげられぬまま

観念してアップ。



差し障りのない言葉の無意味も

なんとか刻もうと試みたことの意味も


みんな土に埋め混ぜ、いつかふかふかの腐葉土に